勝ち組、負け組

タイトルは違いますが、これはこの前の”ブラジル日本移民史料館” の続きです。「勝ち組・負け組」は、単にブラジルに渡った日本人のなかの成功組とそうでもない組という話ではありません。

最初の移民がブラジルに渡ってから30年ほどで太平洋戦争が始まり、そして敗戦によって帰国が叶わなくなってしまいました。                 しかし、日系人社会の中では、”日本は負けたのではない、勝ったのだ” と主張するグループが現れました。いわゆる「勝ち組(信念派とも)」が登場し、負けたことを認める「負け組(認識派)」を「非国民」呼ばわりして襲い、20人近くの死者を出すまでの大事件になりました。                     現代の私たちにはちょっと信じられないような話なのですが、当時はTVがあるわけでもなく、ブラジルは敵国だったので新聞はおろか、日本語の使用まで禁止されていましたので、正確な情報を得ることはとても困難であったことは間違いないでしょう。また、日本人なら誰しも「勝ち」を信じたかったでしょうし。     そのうちブラジルでも平成天皇のご成婚の映画なども上映されるようになったりして、”ほら見ろ、日本はあんなに発展しているではないか。日本はやはり勝ったのだ!”と勝ち組が勢いついたりもしたようですが、「負けた」という事実を曲げることはいかんせん無理があり、敗戦から10年ぐらい経ったころにはこの争いも終息していきました。                              

*戦艦ミズーリ号での降伏調印式の写真。「これは武装解除された米軍が、刀を持った戦勝国日本をお迎えしているのだ」というのが勝ち組の主張です。そう言われるとそのようにも見えます。

* この写真は「敗戦国アメリカの責任者が日本にお詫びしているのだ」というのですが、これは偽造と思われます。いずれも「ブラジル日本移民の100年」より。

もはやこの先ブラジル人として生きて行くしかないと決めた日系人たちは、またも奮起し、コーヒーの栽培だけでなく、日本風の野菜や果物を栽培、普及に努め、日系人は”農業の神様”とまで呼ばれるようになります。             また教育に熱心な日本人ですから、2世3世達には無理をしてでも教育を受けさせ、大学教授、医師、政治家、大企業の幹部など、多くの日系人が要職で活躍しています。 日系人は全体の1%にも満たない数ですが、ブラジルで最難関と言われているサンパウロ大学の医学部、歯学部の10%近くは日系人が占めると言われています。

一方、勝ち組・負け組の騒動が終息したころから、日本は高度経済成長で豊かになり、今度はブラジル日系人の2世、3世が日本に出稼ぎに来る、という皮肉な状況が生まれることになりました。現在日本には20万人ほどの日系ブラジル人が居るそうです。そんな日本に渡ろうとした多くの人は、戦後の勝ち組の家族、すなわち日本語を棄てなかった人たちが中心であったと考えられます。

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